2007年11月

2007年11月23日

独り言。

手放した。

手放してしまえたんだ、と最近立ち返っては

自覚する。

長らく私を構成する大部分だった物。

「それがあたし」っていう物。

それが何かを説明するのはとっても難しい。

一言で言えてしまえる、一言じゃ片付かない感情。

長らく「ウツ」だった。

最初はひどかった。

だけど徐々に時間と共に「病状」としては回復。

「完治」だと医者から言われても、

一向に振り切る事が出来なかった。

薬を止めるのも、治ったと受け入れるのも恐かった。

どこまでも追いかけて来るんじゃないかと、恐かった。

すんなりと治ってしまうのが恐かった。

再発するのも恐かったし、治った後の残骸のような自分が恐かった。

どこまでもどこまでも。

怖い物だらけだった。

考えてみたら、ウツになって自分を失う前までは

ずっと漠然と「不安」だった。

未来が不安だった。

未来が見えなくて不安すぎて、それが恐かった。

恋人を愛しすぎる自分が恐かった。

だから無茶を沢山した。

全てをぶち壊してしまいたい衝動に駆られて。

今よりも失う事が恐くて仕方なかったくせに。

その不安を打ち消す要素の1つである「結婚」をしても。

その先の未来がさらに漠然としていて。

結婚の後の順序を順序良く実行する事も、

それが不可能なんだとしても恐くて。

ただただ抗った。

家庭の外に自分を求める気持ちが強くて、

仕事、友達、失った恋、それらを強く大事にしてた。

「私はこれから一体何処へ行くんだろう」

学生の時も、独身の時も、結婚してからは尚更。

自分の行方が、未来が不安だった。

結局それは一括りにするならば「執着」。

心、身体、経験、思い出、感情、思想、それらを持つ自分が

可愛くて仕方なくて、握力の限り、持てる限り握り締めてた。

その力の強さが、すなわち不安と比例するのに。

知らないでいた。

持ち物が多い、離さない自分が大好きだった。

知らないでいたから。

ずっとずっと螺旋のような理不尽だと思う苦しみを一緒に持ってた。

好きな人や物や思想が多すぎる私は、大半から見放されていった。

見放したんじゃない。

「見放された」

だってそうでしょう。

握り締めて離さないという事は、その手に握られるのは

不変の物でなくてはいけない。

人間はおろか、環境、持ち物、とにかく色々失った。

失う事を悲しんだ。

自分の所為で、他人の所為で、それを嘆いて怨んだ。

失う時には必ず心の傷を伴った。

それでも強く願っていた。

知らなくとも、強く強く願っていた。

「いつかは何事も受け入れられる強さが欲しい」って。

今、その片鱗らしき物がこの手の中にある。

気付いて、認めて、それらを受け入れたら、

緩んだ手の中に、ある時突然そっと置かれていた。

今まで色んな物を棄ててきた。

涙と、奥歯を噛み締めるような激しい感情と一緒に。

だけど棄てても手の中には何も残らなかった。

手の中に置かれていた、これ。

私のお腹の赤ちゃんと一緒に、天からの授かり物だったんだと思いたい。

ただ、これも私を構築する1つでしかない。

与えられた物だけれど、握り締める為の物ではない。

色んな物に触れる為の1つの拠り所。

月日と共に何もかもが変る。

不変な物など1つもない。

どれもが必然と偶然とが織り上げる波の狭間に在る。

それを自然に抗う事無く受け入れたらいい。

流れゆく波に任せて、その時々に出会う物に触れ合ったらいい。

色んな物に出会うだろう。

嬉しいものにも、悲しいものにも、辛いものにも、感動するものにも。

どれもがきっかけの1つでしかない。

大事にする事だ。

感謝する事だ。

だけど時が来たら、潔く手放す事だ。

棄てちゃいけない。

手放すんだ。

そしてその全てを、心を空にして、優しい笑顔だけで渡る事だ。

最初から何も感情を持ってはいけない。

最初から何も表現してはいけない。

だって、握り締めてた頃から比べたら圧倒的に出会いが多いから。

その出会いは、今まで選り好みして必然的に引いてきた物達ほど

思い通りには行かないはずだから。

触れた時に初めて自分の心を重ねて、感情を持てばいい。

そして手放す時に初めて、感想を持って思想にしていけばいい。

表現はもっと後の話だ。

人に発信する表現は怖い。

その時だけの感情を、人の心に刻むから。

表現は慎重に、時と場所と相手を考えていかなくちゃいけない。

だけど同時に、想いを言葉にする事はとても貴重な事だ。

だから基本、自分の思想の表現は独り言でいい。

もしそっと聞いてくれる人がいてくれたら、それはとっても幸せな事だ。

多くの触れ合う人は、私の心の声を望んでなんかいない。

それが判って最近、「表現を発信する事」がそんなに大事だとは思えない。

だから私の声は、耳を澄まさなきゃ聞こえない程度の声でいい。

だってそんなに重要な事じゃないから。

私のすべき事。

これからはもう主役じゃないから、次世代を育むお手伝い。

そして同じ時間を生きる大事な家族、大事な人達と多くを共にする事。

共にするにあたって、その人たちの為にできる限り良く生きる自分で居る事。

「幸せだ」とお互いに思える為の媒介を多く持つ自分で在る事。

私の生きる意味。

多くの「出会い」「気付き」、そして「終わり」「別れ」

に出会う為。

それは自分自身とも。

「死」という当たり前にある別れの時の為に生きる。

静かに今こう思う自分が、あと何年か後に何を言ってるか、

それが楽しみ。

もう未来に怯えない。

だって未来にあるのは、色んな出会いと、それらがいつか終るって

事だけだから。

色んな出会いと別れ、始まりと終わりでまた私は磨かれる。

そして幸せな事に終る、別つと判っているからこそ、ベストを尽くして

「良く」と強く願う心を持っていられる。

終わる時の為に生きよう。

何を恐がることがあるだろう。

全ては終る時の為に、生きてるが故の出来事だから。

それでも色々ぶつかる。

きっとまた何かに囚われる。

それもまた、生きてるが故。

でも触れたらいい。

そんな時はそんな自分の中身にそっと触れたらいい。

そしたらきっと、ぐっと力の入っている手をほぐして

開いてあげられる。

「これ、要らないよ」とそっと取り上げてあげられる。

取捨選択は、きっと導かれる。

「良く生きたい」と思う意志と、大事な人達に囲まれた自分の心が

指し示してくれる。

それを信じて疑わない事だ。

生きたい方へ、力を抜いて生きたらよかったんだね。

それだけの事だった。

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suilove9214 at 01:00コメント(0) |  

2007年11月01日

もにょもにょ。

最近にこサンがお腹で動くのが判る。

もにょもにょぽこぽこ。

リラックスした時間に活動的になるみたい。

もうそんなに大きくなったんだ。

私が判るくらいに。


今も。もにょり。




suilove9214 at 20:39コメント(0)トラックバック(0) |